B-STYLE

[身近なモノの取合せで暮らしを満喫する]  [時の経つのを楽しむ] [偶然を味方にする] それらをBスタイルと呼ぶことにしました。

2015/01/14

山海塾 天児牛大さんの受章

天児牛大さんがフランス政府芸術文化勲章コマンドール章(le commandeur de l'ordre des Arts et des Lettres)を 受章した。日本生まれの舞踏というものが世界のダンス史に残るという意味でも重要な出来事だ。

天児さんと知りあったのは私の学生時代。暗黒舞踏派「大駱駝艦」の創立メンバーだった。頭は剃っていたが、横須賀出身というのでリーゼントやスタジャン文化と、白塗りの暗黒舞踏文化がどうつながるの? と思ってしまった。もちろん天児さんのアメリカンスタイルは見たことはないが。

■暗黒舞踏
私の中では暗黒舞踏というのは以下のように整理されている。
時は1960年代。もともとモダンダンスからスタートしたダンサーのなかから、西洋ダンスにあきたらないダンサー、大野一雄、土方巽、笠井叡、石井満隆などが現れる。彼らの生み出した日本独自のダンスを「暗黒の舞踏だ。」とよんだのは埴谷雄高だと聞いている。

彼らはそれぞれが稽古場(スタジオ)をかまえるが、土方巽の稽古場には唐十郎、麿赤児など、後に「状況劇場」として活躍するメンバーが集まっていた。
「大駱駝艦」は状況劇場の看板役者だった麿赤児が独立して築いた舞踏集団である。

■大駱駝艦とのかかわりの中で
創立当時、大駱駝艦の表現は混沌としていた。演劇、舞踏、武芸など何でもありのアンダーグラウンド・パーフォーマンスである。街頭も表現の場だった。時代は70年代だったが、60年代サブカルチャーを引きずっていたと思う。

大駱駝艦とは学生時代からかかわりがあったが、卒業してすぐに3作品目「陽物神譚」(澁澤龍彦原作、土方巽客演)の宣伝美術を担当することになってより親密に。
麿さんが「ポスターを踊っちゃうから。」と言い出した時は驚いたが、舞台にはポスターから生まれたと思われる装置が本当にあった。

私がルネッサンスの画家アルトドルファーのスペクタクル画を加工してポスターを作ったせいもあるが、このあたりから大駱駝艦は舞踏とスペクタクルにという方向性を明確にしてゆく。60年代の方法は終わったのである。

当時、大駱駝艦には同世代の才能が結集していた。
天児さんは、すでに独自のダンススタイルを持っていたが、それはメンバー全員が同様で、特に目立つということはなかった。
ただ天児さんは何につけても職人肌。曖昧なことは嫌いで可能なことを着実に実現していく人間のように思えた。それは後になってそれぞれが独立して東京を離れたり、海外への進出を始めた時、より明確になった。

■山海塾
私は、山海塾の成功は先人たちの経験を踏まえ別の道を選択したことにあるのではないかと思っている。それは末っ子が上の兄弟を見て成長するのに似たような気がしてならない。

福井の北龍峡で天児さんにあった時、すでに山海塾は設立されていて日本中で公演をしていた。地方に拠点を置こうとはしなかったし、メンバーを増やそうとも女性を入れようともしなかった。この判断は、集団の在り方として、当時の暗黒舞踏派にはなかったものだ。

そこで何人かのメンバーを紹介され、私はバスケットボールチームのようだと思った記憶がある。強力なチームだった。

山海塾はツアー中心なので装置も少なく、どちらかと言えばミニマリズム的なシンプルな舞台だった。理にかなっていて無駄がなく天児さんらしい。山海塾は"きれいな暗黒" と呼ばれた。ほかに"明るい暗黒"といわれる舞踏派まで出てきた時代で、暗黒舞踏は新しい世代へ移りつつあった。

■時がたって
その後は何度かしかお会いしていない。山海塾は世界ツアーで知られるようになっていた。
銀座で会った時だと思う。「有名になっちゃったねー。」といったら、恥ずかしそうに笑っていた。

天児さんのことだからパリを拠点に活動を始めるにあたっては、きっと先にヨーロッパで活動をしていた日本の舞踏家たちを参考にしただろうと思った。

■鳩小屋
大駱駝艦が4作品目「皇大睾丸」の準備をしていた頃、稽古場をかねた宿舎は山王のお屋敷町にあった。1Fにガレージがあって、私はここを仕事場にして両性具有の人形を制作していた。
多摩川の河原にやぐらを建てて、この人形を吊り、人形の手足から伸びた糸を天児さんの手足に結んで動かすためだった。"天児"というのは人形という意味で、当時の天児さんの思いを込めた名前でもある。

この山王の建物には天辺に小さなサンルームがあり、ここが天児さんの部屋だった。「鳩小屋」と呼ばれガラス張りなので昼は暑かった。
この頃は天児さんが世界中で活躍するダンサーになるとは思ってもみなかったが、今になってみると、天児さんはあの「鳩小屋」で毎日空を眺めながら世界へ飛び立つ夢を育んでいたのかもしれない。

■終わりに:舞台表現の世界とネット世界
インターネットを始めてからこれまで、あまりにも舞台関連の記述が少ないのに驚いている。現代舞台美術の先駆者、金森薫。照明の神様、吉井澄夫。日本の人形劇演出の鬼才、清水浩二。まだまだいくらでもいるだろう。映画やアニメの世界と比べ、舞台表現に関わる記述ほどんど残されていっていない。

ここに書いたのは裏話のような内容だが、今回の受章によって、これからは舞踏がちゃんとした執筆者によって少しでも多く語られていくことに期待したい。天児さん、おめでとう。