B-STYLE

[身近なモノの取合せで暮らしを満喫する]  [時の経つのを楽しむ] [偶然を味方にする] それらをBスタイルと呼ぶことにしました。

2012/11/08

矢野さんの思い出


矢野さんが亡くなった。80才だった。
告別式は久木の二葉会館。喪主の道子さん、大勢の参列者。懐かしい方々に会う。
出棺のあと横須賀の火葬場に。戻って妙光寺で最後のお別れ会をした。

矢野さんと会ったのは私が21才の頃。私は芸大の2年だった。それから40年以上の歳月が経った。今から考えると矢野さんは私より17才上だから当時は38才だったことになる。

そのころ私は、芸大の紛争が終わり大学に対する失望感や無力感があって、学外に何かを求めていたのだったと思う。学外ではいろんなことがあったが友人も増えた、友人に連れられて矢野さんお宅へ伺ったのが最初の出会いになる。

矢野さんのデザインワークは、カネボウハリス「チューイングBON」のデザイン、挿絵、化粧品のボトルとパッケージデザイン、本の装丁などなど。
東京に出かけるのが面倒なので自宅でデザインをしている。かつて人形劇団ひとみ座の舞台装置をデザインし、画家でもある。たくさんの蔵書があり、奥さんは詩人。鎌倉の有名文化人との交流がある。

クラッシックが好きでシャンソンが好きで、ビートルズが好きだった。トランペットを吹いていた頃もあったらしい。当時盛んだったアングラ演劇にも関わり、若手の才能を評価していた。自分は「焼け跡派」と称して既成社会に批判的だった。

友人から矢野さんはデザイナーだと聞いていたが、会ってみると正直言って正体不明の人物に思えた。私との接点は、澁澤龍彦周辺の文学、既成社会に対する批判、ビートルズだった。

それからは逗子の久木の家に何度も通い、泊めていただき仕事や個展のお手伝いをすることになる。毎晩酒を飲み、アートやデザイン、文学や音楽や演劇について語り合った。この間いろんな方が訪れ、奥さんも一緒だった。いつもビートルズがかかっていた。

しばらくお付き合いすると矢野さんのスタンディングポジションがなんとなくつかめてきた。70年代はデザイン職が細分化し、専業化したデザイナー、イラストレーターなどがデザイン界を賑わしていた。しかし矢野さんの若い頃はデザイナーという立場が認知されておらず、自分でデザイナーを宣言して様々な分野でデザインの意義を説く必要があったのだ。だから仕事は多岐にわたっているのだ。

実はこれは21世紀のデザイナーに最も求められていることだ。デザイナーは何でもできなくてはならない。物事の仕組みや取り組みの方法まで提案することが求められている。デザインは半世紀を経てまた同じ場所に戻ってきたのである。

矢野さんはその後、建築を設計し、後には仏画に専念することになる。そしてさらに精力的にウイーンでの個展、ヨーロッパでの暗黒舞踏の舞台装置、上々颱風の舞台装置なども手がける。矢野さんのことを知らない人に話す時は、「ダ・ビンチのような人だよ。」と説明している。矢野さんからはいろんな事を学んだが、師匠と言うよりは先輩のような存在だったと思う。

久木で告別式が行われたことは良かった。当時を思い出させてくれた。現在、久木の家は残っていないが、家には大きな桜の木があり、もと医院だった玄関には受付の小さな窓があった。出窓のある仕事部屋には、床に大きな電線の巻き枠がテーブル代わりに置かれ、壁際の自作家具には骨董品が並んでいた。多くの人がここに集った。仕事をし、そして酒を酌み交わした。それは自然と出来上がった異種交流の場だった。20代、この場から多くのものを得たと思う。矢野眞に感謝。合掌。

そういえば火葬場で不思議な事があった。
窓のブラインドを指で広げて外を覗くと、
100メートルほど先の丘の上にある住宅の屋根に、
大きなワシがとまってこちらを見ている。
しばらくするとワシはその巨大な羽根を広げ、
そしてまた閉じたのだった。
「おーい、俺はここにいるよ」と
矢野さんが私たちのことを眺めているように思えた。